第115回 日本音楽学会中部支部例会

開催概要

会期
2015年12月12日(土) 13:30~16:40
開催地
東海 > 愛知県
会場
名古屋女子大学 東館504講義室[アクセス
〒467-8610 名古屋市瑞穂区汐路町3-40 TEL 052-852-1111(内328)
地下鉄桜通線「瑞穂区役所」駅下車、1番出口を出て東へ300メートル
メインテーマ
シンポジウム「幕末から明治の名古屋の伝統芸能」
公式サイト
http://www.msj-chubu.org/
主催
日本音楽学会

プログラム 内容

シンポジウム「幕末から明治の名古屋の伝統芸能」

パネリスト:清水禎子(愛知県史編さん室)、寺内直子(神戸大学)、飯塚恵理人(椙山女学園大学)
司会:井上さつき(愛知県立芸術大学)

パネリストに日本音楽学会外から名古屋の芸能史研究の第一人者である清水禎子氏と飯塚恵理人氏、西日本支部所属の雅楽研究者、寺内直子氏を迎え、尾張藩に庇護されてきた雅楽と能楽が、幕末から体制崩壊後の明治期においてどのように伝承されてきたのかを楽人や能楽師の動向、素人愛好家や名古屋商人たちの果たした役割などを通して浮き彫りにする。

清水禎子「幕末から明治初期の尾張の雅楽」

 江戸時代の儀礼的な音楽については、武家の式楽である能楽、朝廷の式楽である雅楽という固定観念で語られてきた。しかし、こうした固定観念は、地方文書によって武家以外に富裕な町人層や豪農層の暮らしぶりが明らかになると共に再考する段階に来ていると考える。
 江戸時代における名古屋城下最大の祭礼であった名古屋東照宮祭礼の歴史をたどりながら、尾張において雅楽がどのようにして定着、発展していったかを見ていく。また、雅楽の演奏活動がどのような身分階層の者によって為されたのか、彼らがどのように交流していたのかを見ることで、尾張において雅楽の奏楽ネットワークが育まれたことを明らかにしていく。
 明治維新によって、尾張藩は名古屋藩となって、藩に召し抱えられていた「楽人」を取り巻く環境は大きく変わり、彼らが奏楽活動の場としていた名古屋東照宮祭礼も廃絶の危機にさらされることなる。報告では、江戸時代に育まれた奏楽ネットワークが、名古屋東照宮祭礼の復活と祭礼舞楽の継続にどのように関与していったかを明らかにしていく。

寺内直子「名古屋における素人愛好家の雅楽伝習~「趣味」から地域文化の復興へ~」

 この発表は、名古屋城下本町筋にあった油商・高麗屋に伝わった雅楽関係資料を紹介し、素人愛好家が伝承していた雅楽の実態を明らかにすることを目的とする。高麗屋資料は楽譜、山井基萬ら宮内省楽人の伝授書、舞楽の写真、演奏会資料等を含み、いずれも明治期のものである。江戸時代の中頃から、いわゆる禁裏/幕府に仕える専門の楽人が裕福な素人に雅楽を教えることが盛んになるが、具体的な伝承内容を示す資料はそれほど多くない。高麗屋当主の雅楽習得はこのような江戸時代以来の素人愛好家の伝習の延長線上に位置し、その実態を示す資料としてたいへん貴重である。さらに、高麗屋当主は他の数名の愛好家とともに明治期、熱田神宮の舞楽に出演しており、単なる愛好家の趣味活動を越えて、明治初頭に衰退した名古屋の雅楽伝承の復興に重要な役割を果たしたと考えられる。

飯塚恵理人「幕末から明治20年代の名古屋能楽界-能楽の新しい担い手の顕在化-」

 幕末までの尾張藩の能楽番組は、報告者の管見にあるものはすべて尾張藩御役者の手控えであり、能舞台は藩に抱えられたプロが勤めるものであった。それが明治になると、尾張藩御用商人の一族である内田忠三(宝生流シテ方)・郷士の鬼頭八郎(観世流太鼓方)・末広町の商人の井上菊次郎(和泉流狂言方)など尾張藩御役者の家出身ではない人物が能番組に登場するようになる。しかし彼らが明治に入ってから稽古を始めたとは考えられず、おそらく江戸時代から謡曲・囃子・狂言を稽古していたものの、当時は奢侈禁令のために表立って舞台には上がらなかった。それが明治維新により従来の身分制度が否定されて四民平等となり、職業選択の自由が保障されると能番組に名を載せるようになったものと考えられる。こうして舞台に立つようになった愛好者出身の能楽師達が、寺田左門治ら旧御役者が尾張藩主を頼って上京した後、共同出資して能舞台・能装束を作り名古屋の能を継続していく。素人である商家の旦那衆が能楽師になり、能を教え愛好する時代になるまでの変遷について、番組・資料から報告したい。

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